真田庵(善名称院)

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真田庵(善名称院)

真田庵と呼ばれていますがこれは別称で、正式名称は善名称院という高野山真言宗のお寺です。

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真田昌幸・幸村(信繁)親子が関が原の戦いで西軍に味方しましたが、西軍が敗れたために流刑となりました。

当初の流刑地は高野山だったのですが、真田幸村が妻を連れていたために女人禁制の高野山ではなく、九度山となったわけです。


真田昌幸は徳川家とは仲が悪く、1585年の真田昌幸の居城で徳川軍約7千人を2千人の兵力で迎え撃って13百人もの死傷者が徳川方に出る大勝となった上田合戦という戦いもありました。

関が原の戦いでは同じく居城の上田城で、東軍先鋒にあたる徳川秀頼の3万8千人を、わずか2千人の兵力で迎え撃ち、敗れることなく中仙道を美濃へ向かう軍を足止めしましています。

いずれも実数の詳細は不明ですが、少数の戦いにも長けていた父・昌幸との経験が幸村を育てたのでしょう。

徳川秀頼が関が原の戦いの途上で行なわれた合戦は、勝敗は決していませんが、関が原の戦いの先鋒軍が実際の合戦に間に合わなかったことと、兵力差が話のとおり19倍という差であれば完勝とも言えますね^^

上田軍記によれば上田領の没収と死罪だったのですが、真田家長男の信行が東軍に属していたため、流罪で済んだということです。


真田庵では国許からの援助だけでなく、兜の紐などに使用された真田紐を作製・販売して家計の足しにしたことが知られていますが、司馬遼太郎氏が著作の中で書いているように、部下が真田紐を売りながら地方の情報収集にあたっていたというのが、戦国武将の中でも最高級の評価を受ける真田家の生き様ではないでしょうか。

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(信州で売られている真田紐)


なお、真田太平記等で有名になった真田幸村ですが、在世当時の名は信繁であり、幸村という名は後世の講談等で語られたときに使われてらしいのですが、松代藩の史書にも後年には幸村と表現されています。

教科書では現在でも、信繁で統一されているはずですよ^^


真田庵には境内に「真田地主大権現」や、幸村が真田屋敷に落ちた雷を井戸に封じたという伝説がある「雷封じの井」、父・昌幸のお墓などもありますが、真田昌幸・幸村親子の関連する武具や書などが展示された真田宝物資料館があります。

入場料は200円で、午前8時から午後5時までが開館時間となっていますので、早朝に通過する場合は見学できませんよ^^

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高野山 町石道の解説と風景の真田庵(善名称院)のリンクについて

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